2015/06/19

Saggio #6

「Spaghetti alla chitarra」


 ローマ生活も4年が過ぎたころの1980年7月末頃、兄の芳信が私を連れ戻しにローマにやってきた。両親に命を受けたようだ。

兄は大学卒業後新聞記者にでもなるのかと思っていたが、私が東京のテーラーで修行中に、「婦人服をやりたい」と言い出し、大学卒業後に伊東茂平先生※1のイトウ洋裁研究所に通いだし、その後はパタンナーとして働いていた。
ローマに来た兄は私の生活を見て、これは説得は無駄だと思ったようで、逆にローマ生活を楽しむようになり、遂にはそのまま居付いてしまった。特にオペラが気に入り、頻繁にローマ歌劇場に通っていた。兄の順応性には驚かされる。

 兄が来て2、3ヶ月が過ぎたころ、友人のフィオレが恋人のジュリア―ナの田舎であるペスカーラに行くので来ないかと誘ってくれた。これは是非兄と一緒に行ってみたいと二つ返事で日時を決めた。ペスカーラはローマからアピニーニ山脈を挟んでアドリア海側にあり、風景もとても楽しみだった。

当日朝早めにローマを発ちペスカーラへ向かった。予想通り景色はとても綺麗で、約2時間半程のドライブは大変楽しめた。
約束の13時にペスカーラ近郊の待ち合わせ場所に着いた。10分が過ぎ、フィオレとジュリアーナは少し遅れているんだと思いつつ待っていた。30分が過ぎ、不安が襲う。当時は携帯など無いので連絡の取りようがない。45分も過ぎると場所を間違えたのではと兄と二人で話し、どうしようかと焦る。するとちょうど14時に「ciao ciao」とフィオレとジュリアーナがやってきた。ほっと胸を撫で下ろした。なんと、ちょうど前日の夜にサマータイムが終わったことを忘れていて、私達とフィオレ達との間に1時間時差が出来ていたのだ。

無事フィオレ達と合流でき、ジュリアーナの祖母の家に向かった。ランチに招かれたのだ。
祖母宅に着き、ジュリアーナの叔母さんの手打ちのパスタ”スパゲッティ アラ キタッラ”が出てきた。イタリアに来てこのキタッラというパスタは初めてで、一口食べる。

!!!

これがあまりの美味しさだった。なんのことはないトマトソースの味付けだけのシンプルなパスタなのだが、新鮮なトマトの香りとパスタの風味、そしてソースと絡んだ時の何とも言えないコクと自然な旨みがたまらなく、その後2回もおかわりをしてしまうほどの感動だった。「キタッラ」とは、ギターのことで、木の枠にギターのように細い弦を張って麺を作ることからこの名前なのだという。この道具も叔母さんに見せてもらった。
他にもサラダなども出たと思うのだが、とにかくこのキタッラの感動が強すぎて、他の料理は覚えていない。

その後ローマに戻り1ヶ月が過ぎたころ、この時の味が忘れられずにいた私はフィオレに、あのキタッラを是非もう一度食べさせてもらえないかとジュリアーナに頼んでほしいと懇願した。優しい彼はすぐに彼女に頼み、彼女のローマの家に呼ばれることになった。
当日、あのキタッラが食べられると喜びながら兄と一緒にジュリアーナの家に行った。そこでジュリアーナのお母さんが作ってくれたキタッラを御馳走になった。だが、残念ながらあの味ではなかった。。。
違うのは当然だ。ローマとペスカーラでは空気や水が違う。そしてペスカーラの家ではトマトも自家栽培しており、そのトマトで作った自家製トマトソースが違うのだ。
ペスカーラで味わった感動は、その後33年いたイタリアでもあの時が最初で最後であった。
あのシンプルで自然な旨みはあそこでしか味わえないものなのかもしれない。

 未だにあの感動が忘れられない私は、日本橋で知り合い通うようになった近所のイタリア料理店「fratello」※2に行っては、「あの時のキタッラが忘れられない」と言ってみたり、「パスタはシンプルなポモドーロがいいよね」などと好き勝手に言っていたら、オーナーの日高さんが昨年9月にイタリアに行った際にキタッラを作る道具を買ってきてくれた。この話を覚えていてくれたのだ。そして、その”スパゲッティ アラ キタッラ”を作ってくれた。
なんと、これがまさしくあの味に近く、美味しかった。
聞くと、トマトは鎌倉の美味しいトマトで作ったトマトソースだそうだ。
あの時の感動が蘇り、彼が私の夢を叶えてくれたのである。




※1 伊東茂平・・・昭和期の服飾デザイナー。イトウ洋裁研究所を主宰。日本の洋装の草分け的存在であった。

※2 fratello・・・日本橋本石町4-4-12にあるイタリア料理店です。オーナーの日高さんは元高校教師から料理人という異色の経歴の方です。料理が本当に美味しく、気軽に入れる雰囲気なので是非気になった方は行ってみてください!→fratello フェイスブックページ

実際に「fratello」の日高さんがイタリアで購入してきたキタッラを作る道具。
この上に伸ばしたパスタ生地を乗せ、棒で下に押し出す。